さまざまな方に“いい時間”を伺いながら、「心地よい暮らし」や「理想の生き方」を教えていただき、こころとからだの健やかさのために、私たちキリンができることを考えていく「#あなたの“ウェルビーイング”教えてください」。
今回お話を聞いたのは、全国各地で“哲学対話”を行っている永井玲衣さん。哲学対話とは、「手のひらサイズの問いを一人きりではなく、他者とともに言葉を探しながら考えを深めるクリエイティブな時間」と永井さんは言います。
自分の中の小さな問いについて哲学することの先に、どんな世界が見えるのでしょうか。対話とは?ウェルビーイングとは?という問いに対して、永井さんの考えを巡らせていただきました。
人びとと考えあう場である哲学対話をひらく。せんそうについて表現を通して対話する写真家・八木咲とのユニット「せんそうってプロジェクト」、Gotch主催のムーブメントD2021などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)『世界の適切な保存』(講談社)。第17回「わたくし、つまりNobody賞」受賞。詩と植物園と念入りな散歩が好き。
01
私たちは考えることさえ、一人ではできない
哲学対話で発言する人が持つ、名前のない鳥のぬいぐるみも同席してくれました。
私は哲学対話を通して誰かと一緒に考え込んだり、大笑いしたり、そんな朗らかな時間を共有しています。対話と聞くと、「話し合う場」とイメージする方が多いかもしれませんが、「きく・きかれる」の関係がある「きき合う場」だと考えています。
哲学対話をするとき、問いを訊ねても最初のうちはみんな「ないです」と言い、しばらくシーンとした時間が流れることが多いんです。だけど、誰かが答え始めると、ポンポンポンッと問いが連鎖するということがよくあります。きくことによって自分の中に言葉が生まれるんですね。対話の起点は、「きく」ことにあるんです。
私たちは、いつも明確な問いや答えを持っているわけじゃない。けれど、きき合う場を作ってみると、自分の中に初めて言葉や問いが生まれてきたりもする。それをぶつけ合うのではなく、よくきくことで「私、こんなことを考えていたんだ」とか「私こうやって考えてしまうんだ」と心の奥底にある考えに気づいていくんです。
哲学対話を通して気づくのは、私たちは考えることさえ、一人ではできないということ。「考える」というと、一人で孤独に考え込む姿を思い浮かべるかもしれませんが、対話でないと私たちは「考える」ことができないんじゃないか、と。考えることはものすごく共同的な行為なのではないかと最近は考えています。
02
自分の中にある、手のひらサイズの問いに目を向ける
私たちはみんな何かしらの問いを持っているはずだけれど、それを問いだと自覚していなかったり、外に向けて表現してはいけないと思っているように思います。
例えば、以前、哲学対話をしているとき、絵を描いている方が「家がごちゃごちゃになってきたけど、片付けないといけないのか」という問いを出しました。それってすごく日常的で「手のひらサイズ」の問いですよね。手触りのある、人肌のある問い。そんな問いに対して普段であれば、「わはは、片付けなよ〜」とか「片付ける人もいるし片付けない人もいるよね」とか「あなたはあなたのままでいいんじゃない」と返すことがほとんどだと思うんです。それでは会話が5秒ぐらいで終わってしまいます。
だけど、哲学対話という場でその問いについて深くきいていくと、乾いた絵筆の在り方とか、散らばった絵の具の姿とか、そういうものに魅力を感じるんだというような話になっていった。そんなふうに手のひらサイズの問いの向こうには、思いもしないものがあるということがよくあります。
人は1日に200〜300ぐらい問いが浮かんでいるんじゃないかと思っていて、でもそれを無意識に抑圧してしまったり、忘れていることが多いんじゃないかと。本人にとってはすごく切実だったり、ずっと心のどこかでずっと立ち止まっているような問いだったりするのに、「言っても意味がない」とか「こんなことを考えても無駄だ」と思ってしまっている。
だからこそ、そういった問いに目を向けることは、自分の中にギューっと抑圧されていたものを取り払うことでもある。自分自身が何を考えているかに目を向けて、気にかけてあげる。そうやって自分を大切にするというか、自分で自分を覗き込む。それってウェルビーイングにもつながることなんじゃないかとも思います。
03
哲学対話で出会う人々や言葉。その感触を覚えていたい
自分に向き合うというと辛いことのように思えてしまうかもしれないけれど、決して辛いものではないんですよ。辛いだけじゃなくて、必ず笑いがある。むしろ、笑わない対話はないかもしれない。まず、問い出しの段階で笑いが起きるんです。「そうだった、そんな問いがあった」って。
もう一つ、哲学対話では問いをきくと、その人を好きになっちゃう。もう少し大きな話でいうと、対話をしちゃうとその人にもう暴力を振るえなくなるというか。「あ、この人はこんなことを考えて生きているんだ」「生きていて、こういう生活してるんだ」って。
ある人が「なんでタピオカって定期的に流行るんだろう。おいしいものってずっとおいしいのに、流行るっていうのはおかしくないですか?」と問う。私は、この人ってこんなことを考えているんだって感動するんです。
ほかに「いい日記を書きたいって思うんですけど、いい日記ってそもそも何でしょうか?」とか。この人は毎晩日記を書くそうですが、いい日記を書くぞって思っているけど、そもそも“いい”ってなんだ?それは誰の基準なの?誰にも見せないのに。日記なのに嘘を書いていいんだろうかとか。
もちろん、すごく切実なことを初めて言えたみたいな人もいます。「働かざるもの食うべからずって思っちゃいけないと思っているのに、自分はどうしてもそう思ってしまう」とボロボロ泣きながら話してくれた方がいらっしゃいました。頑張って働いてきた女性が話してくれて、それを聞いてみんなで泣いて。哲学対話は、泣く、笑う、泣く、笑うの繰り返しの時間なんです。
こうやって対話のなかで出会う人々の言葉や、その言葉を発した瞬間を私は忘れたくはないなと思っています。一人の人間が生きているということを覚えておきたい。
対話をしていると、人間ってこんなもんでしょうとか、社会ってこんなもんでしょうという意識が、常に打ち砕かれます。この会社のこういう人はこんな人、こういうスーツを着る人はこんな人、みたいな偏見や固定観念ってあるじゃないですか。ああいうものが笑っちゃうくらいに崩れていくんです。「やっぱりこういう人だったか!」とはならない。みんな変でおもしろいなって。その感触を私はずっと覚えていたいです。
そして自分自身もそれを達観するのではなく、巻き込まれながら一緒にその固定概念を拒みたいし、一緒にもがきたい。一緒に対話の渦に飲み込まれて、洗濯機の中でぐるぐる回るみたいなことをしていきたいんです。
04
問える場、表現できる場をもっと作っていきたい
哲学対話を通して出会う人たちは、傷ついていることが多いです。怯えて傷ついて、こんなこと言えないとか、これって言って大丈夫かなとか思い込んでいる。企業でも哲学対話をしていますが、大人が泣いている場に何度も出会いました。どれもすごくかけがえのない考えや気づきだったりするけれど、それをなぜかわからないけど本人はすごく抑圧してしまっているんです。
だから、私は今すごく焦っています。全国でいろいろな人々と哲学対話をしていて思うのが、問いを表現できる場がこの社会に果たしてどれだけあるだろう、ということ。それにはちょっと怒りのような、ため息が出るような感情も伴っています。これまで出会ってきた人たちの顔を思い浮かべて、もっと対話をできる場を作らないといけないな、と。対話の場というのは人工的な場で、日常のなかでは自然に生まれにくい場だと思うんです。だからこそ、その場を作ることが必要。
これまで10年以上哲学対話を続けてきて、よい対話ができたかどうか実際のところよくわからないけれど、とにかくみんなでそういう場を作ってみようとする行為自体に意味があるはず。問う人を増やすことも大事だけれど、問える場を作ることがもっと大事なのかもしれないなと最近は考えています。
05
哲学対話には、答えがないわけではない
哲学対話は、「答えなんかないさ」という態度ではないんですよ。答えみたいなものを求めて思考するけれど、その時間内では見つからないという体験です。当たり前だとわかったふりをしていたことが、またわからなくなることもあるし、もしかしたら深まっていくそのプロセスや私たちが辿るその道のすべてがある種の答えかもしれません。
例えば、さっきの「家を片付けなきゃいけないのか」という問いは、「じゃあ片付けないってどういうことなのか」と問われたとたん、またよくわからなくなる。そのままにするってことなのか、無視するということなのか。さらに片付けの話から広がって、街をきれいにするとは完璧に生まれ変わらせることなのか、まったく違う建築物を建てることがきれいにするということなのか?破壊するのではないのか?もしくは社会を直すとはどういうことなのか?…と、問いが急にブワッと湧いて出てくる。人と話すことで奥行きが出まくってしまうんです。
それは、薄ぼんやりしていた誰かのモヤモヤが人々と言葉が重なることによって、よりくっきり見えるようになるという体験。問いが増えるようにも見えるけれど、一方で、見えなかったものが見えるようになるというある種の答えのようなものでもある。だからか、対話した後に「答えは出なかったじゃないか」って怒って帰る人はいないんです。
答えがなくて苦しいときって、全部が薄ぼんやりして何も見えないときだと思います。そういう意味でいうと、見えるものが増える、きこえるものが増えるということは、その人にとってある種“前に進める”ことなのだと思うんです。
モヤモヤしていたものの正体がくっきりすることによってストンと腹落ちすることを、解決すると言ってもいいかもしれない。問いや問題に向き合う態度は、多様でいろいろあっていいと思うんです。
06
世界や人に対して、こんなもんかって思いたくない
私は「言葉」が好きです。子どものころから本に育てられたからか、言葉によって世界がどんどん見えていく感覚がおもしろいんです。言葉によって奥行きが見えていって、言葉が組み合わさることでまたまったく違う姿を見せる。詩や短歌が好きなのは、そういう理由です。
単に「富士山がきれい」というとすごく日常的な世界しか見えないけれど、ここにたとえば「溶ける魚」といったような変わった言葉と組み合わせたとたん、なんじゃそりゃ!っていう世界が見えるようになる。言葉によって、その世界をもっとわからなくなりたい。世界や人に対して、こんなもんかって思いたくないんです。
詩と笑いと哲学は私のなかですごくつながっています。それは世界が“ズレる”とか、違う姿を見せるという意味で。たとえば、「笑い」ってズレにより生まれる違和感に笑ってしまう現象だと思っています。詩もそう。哲学もそうです。「ぬいぐるみがかわいい」「え、ぬいぐるみがかわいいって何?」みたいに、急にグラっとなるみたいなズレ。
そうやって、自分が見る世界をずっと揺さぶっていたい。それは不安定になりたいという意味ではなくて、むしろ「これが答えか、なんだこんなもんか」「行き止まりか」って思いたくないから。
10代のころ、行き止まりだという感覚がイヤでした。こういうものだから、という行き止まり。人は安心を求めるために正解を求めると言うけれど、「それって本当?」と私は思っています。正解って、絶対に安心はしないと思う。もうここからは出られないよ、この部屋から出られないからねって言われているような閉塞感。私は、そんな場所から常に飛び出たかった。だから今こうして、笑いや詩、哲学など対話に惹きつけられているのかもしれません。
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