走る哲学者・為末大さんが考えるスポーツの新しい価値と楽しみ

為末大 / 元陸上選手、Deportare Partners代表

公開日:2023年12月28日

内容、所属、役職等は公開時のものです

さまざまな方に“いい時間”を伺いながら、「心地よい暮らし」や「理想の生き方」を教えていただき、こころとからだの健やかさのために、私たちキリンができることを考えていく「#あなたの“ウェルビーイング”教えてください」。

今回、お話を聞いたのは、元陸上選手で、現在は“走る哲学者”としてさまざまな分野で活躍中の為末大さん。男子400mハードル種目日本記録保持者というトップアスリートとしての経歴を生かしたスポーツ指導や教育事業を行う一方で、鋭い視点と、共感を呼ぶ言葉選びの発言で唯一無二の存在感を放っています。

2023年に現役引退から丸10年という節目を迎えた為末さんに、今だから感じるスポーツがもたらす豊かさと、その可能性について語ってもらいました。

為末大(ためすえ だい)

元陸上選手、Deportare Partners代表

1978年広島県生まれ。中学時代より陸上選手として目覚ましい活躍を見せる。男子100mから400mを経て400mハードルに転向。スプリント種目の世界大会では、日本人として初めてメダルを獲得し、オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3大会に出場。引退後、株式会社Deportare Partnersを創業。『走る哲学』(扶桑社)、『為末メソッド 自分をコントロールする100の技術』(日本図書センター)など著書多数。
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01

スポーツの本質は身体を動かす楽しさ

「スポーツって何ですか?」と聞くと、人によってさまざまな答えが返ってきます。例えば「勝負です」という人もいるし、「体力づくり」という人もいる。僕にとってスポーツは「遊び」の感覚が強くて、「自分と環境の間で遊ぶこと」と定義づけているんです。

現役時代は常に勝負の世界にいて、自分がそんなふうに思うようになるとは思わなかったのですが、引退してみたらスポーツを楽しむ方向に意識が向かって、遊びの領域に近くなった。だから今は誰もが楽しいと感じられるよう、スポーツの入口で身体を動かすことの接点をつくる教育領域の仕事を行っています。

30年以上スポーツに関わってきて思うのは、スポーツの本質である「身体を動かすのが楽しい」という感情は、人間に備わる“自然な感情”であるということ。我々人間だって、もともとは動物であり、弱肉強食の世界にいた。つまり常に食うか食われるかのなかで、どうやって逃げるかをずっと考えてきたわけです。そこで二足歩行を獲得して移動できるようになり、身体を使って動いて…と、進化してきた。長く生き延びるために身体能力を磨き、知恵を働かせていったわけです。そうして攻撃から上手く逃げられることが増え、生活に余裕が生まれ、文化なども形成されて。そのような過程の中で、環境に合わせて遊ぶようなことも増えていったんじゃないかと思うんです。

だから本能的に、外の環境に身体がピタッとハマるとか、音楽に身体を委ねるとかに対して喜びを覚えるようにできているのではないかなと。だって、例えばバッティングセンターで飛んできたボールを打って「気持ち良い!」と感じるって、よく考えたら不思議じゃないですか。

だから、スポーツは「楽しい」「環境に合わせて遊ぶもの」という考え方はあながち間違っていないと思っていて。生きるために不可欠ではないけれど、「心の豊かさ」という観点から見たときにはすごく大切なものだと思っています。

02

人のために生きることで見える、個人の幸せ

スポーツが持つ良さとして、社会の土壌的な側面があると思います。みんなで一緒に身体を動かすとコミュニケーションが生まれるし、仲良くなれる。スポーツが盛んな街では防犯や防災の面で強いというデータもあるくらいで、「身体を使った共同作業」というのでしょうか。スポーツという、リアリティのあるコミュニケーションを通して互いの信頼感が高まっていく。個の信頼はやがて全体の信頼につながり、地域や社会のウェルビーイングを高めることにもつながっていくと思います。

僕は今でこそ、こんなふうにスポーツは楽しい!遊ぶもの!と言ってやわらかい感じですが、現役時代は尖っていたと思います。自分起点で、周囲は合わせる前提。「三角形」みたいなイメージで、頂点に向かって突き刺さる勢いで進んでいましたね。でもそれが、引退後は「円」になったというか、バランスをとる方向に変わりました。「人のために生きる」という感覚が強くなったんです。

なぜ自分ではなく、人のために生きるほうに気持ちが向いたかというと、やっぱり「自分の限界」を感じたのは大きいかもしれません。現役時代は個人競技で自分との戦いでしたが、引退して社会に出ると、自分ひとりでできることって少ないんですよね。年齢的にも、他人にお願いすることが増えてきて。例えばハードル教室を開催したら、僕がハードルを飛ぶよりも若い人に飛んでもらったほうが格好がいいじゃないですか(笑)。

あとは、自分ひとりで自分を幸せにしていくのは難しいと気付いたというか。そういう小さな気付きの積み重ねで、人のために生きるほうが楽しいと思うようになりました。

03

スポーツも人生も、最も心地よい状態は「調和状態」

自分の限界という話でいうと、人の気持ちや行動って、実は「無意識」の領域が大きいんですよね。ひとりの人間が自分自身を意識的にコントロールできる範囲はあまり多くないんです。

例えば、心の中に「練習したくないな」という感情が芽生えるときってあると思うのですが、その感情を本人の意識だけで打ち消して頑張るのは、結構難しいことなんですよね。アスリートはそういう状況を「自分に打ち勝つ」などと表現しますが、僕としては「自分を乗りこなす」感覚に近かった。自分の心は自身が思うほどコントロールできないから、流れにうまく乗ろうと。

やっぱり、何事も無理をするとゆがみができるんですよね。嫌々トレーニングをしても結局だめになる。2、3年と短期間ならできますが、10年、20年長くやろうと思うと難しい。僕は現役生活を25年続けましたが、競技を長くやってこられたのは自分を乗りこなしながら「調和状態」をつくり続けたことにあると思うんです。疲労指数や体重など指標はいくつかあるけれど、それはあくまで数値でしかないので、自分自身が納得できる心地よい状態=調和状態を保つことが大事だと感じていました。

社会と人との関係も、きっとそうですよね。自分の心身の調子や生き方を振り返って、「これでいいんだ」って納得感がある幸せって、いろいろな調和がなされたところにあるような気がしていて。それぞれの人にとって心地よい状態を保つことが、この社会で一人ひとりがウェルビーイングを実現していくことにつながるのかなと思います。

04

「思い込み」を取っ払うことで広がる新たな世界

スポーツも社会も、それぞれの心地よい状態=調和状態をつくり続けることが大事だとお話しましたが、それはなかなか簡単なことではありません。しかし、ひとつ阻害している原因を挙げるとしたら、「思い込み」があるのではないかと僕は考えているんです。

1991年、当時中学生の僕は100mの選手だったのですが、当時の100m男子日本記録は10秒20でした。その後1998年に10秒00が出て日本記録が更新され、「もうすぐ9秒台が出るだろう」と言われていたのが僕の時代。でも1998年から、僕が引退する2008年までの10年間に9秒台は出なかった。その後、約10年経っても出ず、ついに2017年に9秒98が出たんですね。そこから一気に9秒台を出す選手が出てきたんですよ。

進化論的にいうと、人間の能力というのは1代や2代では変わらないといわれています。だから1000年前から現在まで、人間のポテンシャルは変わらないはずなのに、どうしてここに来て急に短期間で記録が伸びるのかなと不思議でした。そこで導き出した一つの答えが、思い込みを取っ払ったんじゃないかと。無理だと思い込んでいたものが、無理ではないことが証明された。「9秒台は出せない」という思い込みから自由になったことで、記録を出す人が増えたのではと考えたんです。

思い込みを取っ払う方法としては、体験や経験しかないと思っています。「こんなことをやっちゃっていいの!?」という体験。人って、実際に体験するまでそういう世界があったと気付けないところがあると思うんですよ。例えば、コロナ禍でリモートワークが増えましたが、「会社以外でも仕事できるんだ、していいんだ」という経験を得ましたよね。そんなふうに、実は世の中って思い込みを取っ払うとかなり違う社会のありようがあるんじゃないかと思っています。

05

スポーツのハードルを下げることが、人生の役割

僕が思う好ましい社会というのは、それぞれが自分を抑圧しないで自由に生きている社会。世の中には常識や法律をはじめ、思い込みを形成してしまうような多くの決まりがあるし、年齢や経験を重ねると知識が増えて、さらに思い込みが強くなっていく。だからこそ意識的に、物事に対して決めつけないように気を付けています。

知っていると思っても、自分が思っているものと本当に同じかどうかは分からない。だから決めつけずにのぞいてみる。この考え方は、思い込みを増やさず、みずみずしくいるために大事なことだと思っています。そして最近は、社会的な思い込みを取っ払うための場を世の中にもっとつくっていけないだろうかと考えています。小さなことからでいいので、「今までこうしてきたから」「みんながこうだから」といった思い込みを取っ払う場です。

つい最近、「市民400mハードル」という大会を開いたんです。通常、男子だと91.4cmあるハードルを52cmまで低くして、制限時間もなし。子どもからお年寄りまで楽しめるようにしました。これも「ハードルは高いから、大変だから飛べない」という思い込みを取っ払うことで、スポーツという社会のハードルも下げることにつながりますよね。

競技名に「市民」と付けたのは、市民マラソンにヒントを得ています。市民マラソンの競技人口って、実はここ数十年ですごく増えているのですが、その理由として「いきなり大会に出られる」のがあるかなと思っているんです。通常、陸上の試合に出ようと思うと陸連(日本陸上競技連盟)への登録が必要なのですが、この登録は4月に締め切られます。もし5月に試合に出たいと思ったら、翌年の4月まで登録を待たないといけないわけです。でも陸連の管轄でない市民マラソンなら気軽に出られますから。

もちろん公式にきちんとやることも大事だと思いますが、一方で「そこからはみ出て楽しむのもいいんじゃないの」って思うんです。アスリートだけでなく、一般の人も人生で一度くらい競技場で400mをハードルやってみたいよねって(笑)。
僕の人生の役割として、「スポーツのハードルを下げる」というのがあると思っているので、今後も「市民」と名付けたさまざまなスポーツを企画していきたい。型にはまらない、遊ぶように身体を動かすようなスポーツを通して、「もっと自由で良いんだ」と世の中の思い込みを取っ払っていけたらと思っています。

  • 大西マリコ
  • 写真土田凌
  • ヘアメイクAKANE
  • スタイリスト渋谷美喜
  • 編集花沢亜衣、株式会社RIDE
  • 衣装クレジットHOLLYWOOD RANCH MARKET・03-3463-5668・渋谷区猿楽町28-17/OKURA・03-3461-8511・渋谷区猿楽町20-11

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