自分の仕事は自分でつくる。未知の現場で挑み続けた日々

協和発酵バイオ株式会社 営業マーケティング部部長 / 佐野環

公開日:2024年2月13日

内容、所属、役職等は公開時のものです

キリンに長年勤める従業員の足跡を振り返りながら、仕事人としての信念を探る企画『キリンのDNA』。
今回は『キリン 氷結®』(以下、氷結®)、や『キリン iMUSE(イミューズ)』(以下、 iMUSE)の開発に携わり、常に新しい視点で“キリンの価値”を考えてきた佐野環に話を聞いた。営業の現場からはじまり、ヒット商品を生み育てた商品開発、経営を学ぶためのアメリカ留学、オーストラリアへの出向、そしてヘルスサイエンス事業の立ち上げから現在に至るまで、佐野の歩みはキリンの成長を体現するかのように広がっている。どこにいても自分次第、と笑う彼女にこれまでの道のりを語ってもらった。

佐野環

協和発酵バイオ株式会社 営業マーケティング部部長

1994年キリンビールに入社。営業を経験したのち『氷結®』の開発に携わり、トップブランドに育成。2009年にマサチューセッツ工科大学でMBA取得。オーストラリアの子会社やキリンのブランド戦略部を経て、事業創造部(現ヘルスサイエンス事業部)部長に就任、プラズマ乳酸菌の本格事業化及び『iMUSE』の開発を手がける。日経WOMAN「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2021」受賞。22年より協和発酵バイオ株式会社に出向し、営業マーケティング部部長を務めている。

01

厳しくも楽しかった営業。1本のビールの向こうに生活が見えた

キリンに新卒で入社したのは1994年。当時、「キリンビール」は家族の食卓にある身近なものでしたし、親から子どもに時を超えて受け継がれていく存在として、ずっと憧れがありました。相性が良かったのか、入社面接では本当に無理せず、自然に話すことができたのを覚えています。

最初の6年間は営業として東京の酒屋さんやスーパーを巡る生活でした。30年前はまだ女性の営業がめずらしい時代。嫌みを言われたり、厳しい言葉をかけられたこともありましたが、お店の方の一日を想像して早朝に訪問するとか、話題を膨らませるためにソムリエや利き酒の勉強をするとか、自分なりに糸口を見つけて行動しているうちに「頑張ってるね」と信用してもらえるようになっていきました。厳しい言葉をもらっても、自分次第で打開していけるんだということを営業の現場から学びましたね。

社会に出たばかりで何もかもが初めてでしたから、スポンジのようにどんどん吸収して、とにかく仕事が楽しかったです。酒屋さんには配達の車に乗せていただいたり、一緒にチラシを配ったり、缶ビール1本を売ることの苦労を教えてもらいました。1ケースのビールの重さとか、スーパーでどんなふうに買われているかを知ると、商品が売れた先にある“生活”までイメージできるようになる。何億という桁の大きな数字を追うだけではわからないことが、営業の現場で実感できました。商売の根幹を経験できたことは、今でも私の基盤になっています。

02

チームでやれば、もっと遠くまで行ける。『氷結®』を育てた日々

営業の仕事は大好きでしたが、2000年の6月に商品開発へ異動となりました。20代の終わり頃のことです。「何を開発するんですか」と上司に聞いたら、「何を開発するか、から開発するんだ」と言われて、そんなに白紙の状態から始めるのかとびっくりしたことを覚えています。

それからキリン初のチューハイをつくるチームが結成されて、その4人の中のひとりが私でした。当時開発していたのが、今の『氷結®』です。固まりかけたコンセプトが製造上の理由でダメになったりと波乱もあったのですが、今では氷結のシンボルとなっているでこぼこの加工が施されたキラキラ輝くダイヤカット缶を使用することだけは心に決めていました。「私たちにはこのダイヤカット缶がある!」と青春ドラマのように励まし合って、アイデアを必死で練り直したんです。そして「氷結」果汁を使った新しいチューハイが誕生しました。

発売当時の氷結

私がミッションとしていたのは、女性や若者にも楽しんでもらえる商品をつくること。営業時代にスーパーで買いものをするお母さんや女性たちを見ていましたが、彼女たちが自分のために選べるお酒って当時はすごく少なかったんです。フレーバーもレモン一択、という状況だったので、「グレープフルーツなんてジュースみたいで売れないだろう」と社内で言われましたが、絶対に喜ばれると信じてレモンとグレープフルーツを同時に発売しました。私自身がずっとほしかった商品でもあったので、大ヒットにつながったのは本当にうれしかった。喜んでもらえたんだ、届いたんだなって。

当時の判断基準にしていたのは、過去にない新しいものになっているか、他社とはまったく違うものであるか、ということでした。キリンが出す商品には、「これが未来のスタンダードになる」という美学がないといけない、と徹底的に叩き込まれましたね。

それからは、初摘みリンゴの果汁を使った期間限定のアップルヌーヴォーを発売したり、休暇で訪れたイタリアで搾りたてのブドウの香りに感動して、ワイナリーを口説いて『氷結®』のシャルドネスパークリングも開発しました。当時は今よりもまだまだ男性が優位の社会。そんななか、「日々いろいろと傷つきながら頑張っている女性が、一日の終わりに飲みたいお酒として、シャンパンのような気分で楽しめる気軽な商品があったらいいんじゃないか」っていう確かな思いがあったんです。価格帯は少し高かったのですが、発売した途端とても売れて、マーケターとして雲の上の存在だった上司にも「佐野、いい仕事したな」と言ってもらえた。もう涙がでるほどうれしかったです。

そうやって必死にやっていると応援してくれる人が出てきて、それが大きな渦になっていく。チームでやれば、舞台もどんどん大きくなって、一人じゃ到達できない地点まで飛べるんだということを知りました。大切なのは、人のせいにしない、腐らないこと。何にでもポジティブな側面を見つければ、力が湧いてきますから。

03

新たな経験と学びがなければ、新しいものはつくれない

8年ほど商品開発に携わり、結果として30代のほとんどを『氷結®』に注いできたのですが、仕事に慣れたこともあり次が読めるようになってしまった。「新しいものを追求するには自分が経験していないことをやらないとダメだ」という思いが強くなって、38歳のときに社内制度を使ってマサチューセッツ工科大学のMBAコースに留学したんです。1年3か月ほどでしたが、自分自身が大きく変わっていくのを感じた日々でした。

5歳から10歳までアメリカで育ったので英語には触れていましたが、まったくレベルが違うので、まず語学を一からやり直しました。ただ自分が勉強するだけではダメで、50カ国以上の人が経営を学ぶために集まっている場なので、クラスに貢献すること、つまり国際社会に貢献することを求められるんです。「日本人女性である私」として発言しなければならないし、世界をどう見ているかという自分の意見を明確にしないといけない。スタンスを持たない姿勢は通用しないので、自分自身の価値観や決断力を磨くこと、それにロジックやエモーションを理解することも必要でした。

私はワインやビールのクラスを主催して製法・飲み方・注ぎ方の講座をひらいたり、キリンの歴史と文化をプレゼンしたり、自分がイニシアチブを取れる強みをいかすことで立ち位置をつくっていきました。営業時代に身につけたことも多く、酒屋さんに通っていてよかったなと思いましたね。

国際社会で自分の存在意義を示すという意味では、留学を終えてから出向したオーストラリアのグループ会社での3年間も同じでした。「あなたに何ができるの?」というゼロの状態から、自分でポジションをつくり、現地で自ら消費者の冷蔵庫を調べる調査をして、自分の言葉を語って周囲に貢献していく。そのときに学んだ「迷っている時間があれば、やってしまったほうがいい。やらなければ永遠にできない、やってみれば大概のことはできる」という実感は、今も大きな教訓になっています。

04

キリンの発酵研究と技術が、世界に届くような「大きな花火」になる日を夢見て

帰国してから、2016年に配属された社長直轄の「事業創造部(現在のヘルスサイエンス事業部)」での仕事も、また白紙からのスタートでした。磯崎社長と定期的にやりとりをするなかで言われていたのは、「どうせやるなら大きいことをやれ」という言葉。仕事っていうのはどんなことでも苦労するものだから、だったら大きいことをやったほうが、結果がどうあれ多くのものを得られると。「君にはどんな山が見えるんだ、世界をどう変えるんだ」って問われ続けたんですね。そこで辿りついたのが「キリンにはプラズマ乳酸菌がある」という事実でした。

事業開発の発足当時、「感染症」「ウイルスと戦う」「発酵×歴史×技術」「免疫」「健康習慣」などのキーワードと一緒に、未来のゴールイメージとして花火の絵をみんなで描きました。2016年でしたが、近年の温暖化や東京五輪などを控えたこれからの社会課題として、感染症も想定されるのではないかという予見があったんです。キリンの技術が世の中に貢献できる「大きな花火」のような存在になったらいいな、みんなに喜んでもらえるよう、遠くからもよく見える大きくて高い花火をあげられたらいいなと。食品は誰もが口にできるものなので、安心・安全に楽しみながら健康になっていただき、みんなを幸せにするのがミッションだと考えていました。そうして生まれたのが『iMUSE』(イミューズ)というブランドです。

キリンとして飲料に限定して展開するだけでなく、小児科医の先生や調剤薬局の方々のアドバイスをいただいてサプリメントを開発したり、小岩井乳業、森永製菓、日本コカ・コーラなどにもプラズマ乳酸菌を使っていただき、仲間を徐々に増やしていきました。

健康だけじゃなくて、美容とか、スポーツ医学とか、いろいろな場所で喜んでもらえるものが生まれるかもしれない。それぞれの分野に得意な企業さまと組んで協力しあうことで、プラズマ乳酸菌を世界に届けることができると思うんです。

新しい事業を進めるなかで改めて感じたのは、正直であること、グッドウィルであることが“キリンらしさ”なのかなということ。見せ方は器用ではないかもしれませんが、先人から受け継いだ芯の通った核があり、時代に沿ったかたちでパイオニアであり続けるというのがキリンのDNAであり、あるべき姿だと私は思っています。それはキリンビールの発売当時のラベルにも感じられますよね。今でも変わらずクールです。100年後もそんなキリンでいられるように、変化を恐れずに挑戦したいという思いでひたすら動いています。

05

社会の中にいる「私」。自分が今どこにいるのか、を問い続ける

2022年からは協和発酵バイオ株式会社に出向して、プラズマ乳酸菌をはじめとする健康機能素材の営業マーケティングに従事しています。営業、開発、留学、出向、新規事業など、新たな環境で白紙から出発することが続いたのは、もう運命といいますか。やっぱり新しいことをやるのって楽しいし、燃えるんですよね。

役割や環境が変化していくと、自分自身の在り方も変わってきます。かつては相手の意向を汲み取り、陰ながら支えるのが好きでした。けれど、日本では美徳とされてきた主張しすぎない「奥ゆかしさ」みたいなものも、海外では「日本人は自分の意見がないとみなされるよ、あなたはその責任に気づくべきだ」と言われて、ものすごく刺さりました。「私はこうしたい」とはっきり言って矢面に立つリーダーにならないと、周りの人も一緒にやりたいと思えないですから。

協和発酵バイオでは世界を市場に医薬品原料や機能性素材を扱っていますから、日常的にいろいろなことが起こります。ロシアのウクライナ侵攻がはじまると、じゃあロシアとの取引をどうするかという話になってくる。でも、ロシアにも普通に生活している人たちがいるわけで、必要とされる原料を提供しないのは人道的にどうなのだろうかと葛藤したり。そうやって会社として、自分としてのスタンスを常に問われ続けるんですね。世界の中で日本がどういう歴史を歩んできたかを学び、自分が今どこにいるのかを見失わないようにしなければいけないと日々感じています。

それでも、これからを担う若い人たちには、未来をつくることを怖がらずに楽しんでほしい。やっぱり商品を見れば伝わってしまうんですよ。自分たちが本気で向き合って、楽しみながらつくっていれば、お客さまにもそれが連鎖していく。もちろん砕け散ったことも多々ありましたが(笑)、その悔しさも次につながります。私がキリンで学んだのは、何事も自分次第なんだという認識を持つだけで人は変われるということ。その場所で自分が何をするか、何ができるか。見えない枠にとらわれず自由に、のびのびと仕事をしてほしいですね。

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