キリンに長年勤める従業員の足跡を振り返りながら、仕事人としての信念を探る企画『キリンのDNA』。
今回は長年、ビール造りに携わり、現在はマスターブリュワーを務める田山智広に話を聞いた。これまでに数多くの商品を開発してきた田山。それは失敗の歴史でもあったーー。
「自分にしかできない仕事をする」という信念を貫き、新たな挑戦を続けてきた田山がビール造りにのめり込み、その力を深く信頼するようになるまでの道のりを語った。
田山智広
キリンビール株式会社 マスターブリュワー
1987年キリンビールに入社。工場、R&D、ドイツ留学等を経て、2001年よりマーケティング部商品開発研究所にてビール類の中味開発に携わる。2013年から商品開発研究所所長、2016年4月からキリンビールのビール類・RTDなどの中味の総責任者“マスターブリュワー”に就任。『一番搾り」や『本麒麟』も監修。『SPRING VALLEY BREWERY』は企画立案より携わり、現在もマスターブリュワーとしてビールの企画開発を監修する。
01
自分たちにしかできない仕事をしなければ生き残れない
1987年に入社したので、ビール造りに関わって36年になります。まさか、自分がこんなにもビールにのめり込むとは思っていなかったです。
学生時代は生物学の分野で細胞の研究をしていました。当時はバイオテクノロジーが最先端分野だったし、そのまま研究職の道に進もうかと考えていたこともあります。だけど、アカデミーの世界に進むにしても、一度は世の中に出てみたほうがいいかもしれないと思い、「なんだか大きなことができそうだな」という印象からキリンの就職試験を受けることにしました。
僕が入社した年というのは、技術研修センターができたタイミングで、工場勤務の従業員がさまざまな研修を受けられるようになった時期でした。それまでは体系的な研修がなかったので、「お前らは恵まれてるな」と諸先輩方に言われたのを覚えています。
僕らは研修の第1期生ということもあり、キリンとしても試行錯誤のなかでの研修でした。教科書は、工場や研究所の部門長たちが自ら編纂したものです。当時、一般にビール造りの教科書はドイツ語か英語のものしかなく、それだって今のように簡単に手に入るものではありませんでした。キリンには既に先人達が独自に作ってくださった技術教科書が存在していましたが、それをベースに最新の技術情報や生の現場の知見を盛り込んだ貴重な教科書で、最初に体系的に学ばせてもらうことができたのは、本当にラッキーなことでした。
入社から半年間は研修を受け、そのあとで配属になったのが滋賀工場です。最初は化学分析と微生物分析…、今でいう品質保証を担当していました。その仕事を2年やって、醸造担当に異動し、そこからビールの中味づくりに直接関わるようになります。
滋賀工場というのは、近隣に京都工場、名古屋工場があるため、周辺の地域で商品が足りなくならないようにサポートするという役割の工場でした。担当エリアがない調整工場であることから、現場の人たちは常に危機感を持っていました。「自分たちにしかできない仕事をやっていかないと、生き残っていけない」と。そういう気風の工場だったので、新しいことにどんどん挑戦していました。僕はその姿勢をすごくリスペクトしていたし、そこからキャリアをスタートできたことで今につながっていることも多いと思っています。
醸造の仕事に必死で、正直なところ楽しいという感覚は、当時あまりなかったかもしれない。とにかく、事故なく、美味しいビールをお届けするということだけを考えていました。
その頃のキリンは“フルライン戦略”というのを進めていて、ひとつの工場で7、8液種造るのが当たり前でした。キリンドライ、モルトドライ、ファインモルト、ファインピルスナー、ファインドラフトと、次々と新しい商品を開発していたので、現場では造り分けが大変でした。
キリンがそんなにハイペースで多様な商品開発をしていた大きな理由は、やはりアサヒビールのスーパードライの勢いを止めるため。かといって、小手先の新商品をいくら出しても意味がない。数々の試行錯誤の結果、1990年に生まれたのが『一番搾り』です。“ど真ん中のビール”を造ろうという方針で造ったビールで。おかげさまで『一番搾り』は大ヒット。キリンにとって今も大切な商品になっています。
02
挑戦と失敗を受け入れてくれる環境で挑めたビール造り
僕自身、いろんな商品開発に携わってきたし、失敗もたくさんしました。無茶な試醸を計画してパイロットプラントの設備を壊してしまって1週間仕込みを止めたこともありました。そのパイロットプラントでは上手くいったのに、工場では思ったようにいかず、一仕込を排水に流したり、詰めた見本品を全量廃棄したり。ものすごいお金をかけて設備を新設したのに、あっという間に商品が終売になってしまったことも。結果的に会社には、いろいろ迷惑をかけてしまいました。
さまざまな商品のなかでも、特に思い入れが強いのが『まろやか酵母』というビールです。これは生きたままの酵母が入った賞味期限60日の商品で、冷蔵輸送はマストとなります。冷蔵輸送というのは、クラフトビールではよくあるのですが、大手では前例のないものでした。
我々としては、世の中にないビールを造りたい。思いっきり個性を出そうとしたら、そういうやり方もできたと思います。ホップを強くきかせるとか、珍しいビアスタイルにするとか。でも、それはキリンがやることじゃないなって思ったんです。すでに地ビールは解禁されていて、全国各地で素晴らしく個性的なビールが造られていた時期ですから。
そういうなかで、大手がやるべきことは、良くも悪くもコモディティになり得るぐらいの普遍的な美味しさを追求することだと思ったんです。主張はあるけど、奥に秘めている。それでいて今まで飲んだことのないビール。非常に難しいテーマでした。
ビールの本質的な美味しさを追求することを考え、注目したのが酵母です。キリンはホップにこだわってビールを造ってきたんですけど、ビールの主役であるホップや麦芽を脇に置き、酵母で勝負するビールを造ることにしたんです。
目指していたのは、既存のビアスタイルとして定義できないような、だけど本筋は外さない、ビールの美味しさを真っ直ぐに感じられるような商品です。
少なからず社内からの反対もありました。だけど、僕はできると信じていたので、諦めるつもりはなかった。そうやって軋轢も乗り越えて造ったビールだったので、お客さんから喜びの声が届いたときには、嬉しくて泣けましたね。
やはり、新しいことをやろうと思ったら、そういう失敗や葛藤はつきものなんです。それでも僕は幸運なことに、たくさんのチャレンジングな仕事をやらせてもらえた。同時に、本当にたくさんの失敗をしてきました。それは裏を返すと、たくさんの経験を与えてもらったということでもあります。
人を育てる立場になって思うのは、「will(意志)」を持つことの大切さです。それを持っていれば、必ずチャンスを与えてくれるのがキリンという会社。僕が商品開発をやれたのも、その後経営の仕事に就けたのも、そういう意志を持っていたから。
でも、ただ意志を持っているだけではダメで、今の自分の持ち場で結果を出すことも重要です。そのパフォーマンスは必ず誰かが見ていて、チャンスが回ってくるんだと思います。
03
ビールを造っているだけでは、会社の役には立てないという焦燥
『まろやか酵母』を造った頃は、ビールが売れている時代だったし、商品開発の仕事にやりがいも感じていました。だけど、同時にイチ技術員ではキリンから外に出たときに通用しないし、ビールを造るだけでは世の中に対して力不足だって気持ちもあったんですよね。
技術員ならみんな一度は思うんです。「こんなにいい商品を造ってるのに、なんで売れないんだろう」と。だけど、当時の僕は、物を売るために必要な営業的な視点を知っているわけでもマーケティングの知識を持っているわけでもなかった。自分自身に対してもこのまま一介の技術員をやっているだけではダメだという思いも芽生えていきました。
そこから社外の経営スクールなどに通うようになるんですが、外に出てみると、やっぱり刺激的なことがたくさんありましたね。あるマーケティングの勉強会に通っていたときに、競合他社のビール工場で働いている人と一緒になったことがありました。その人と話していたら、彼は自腹で通っていることがわかって。僕は会社のお金で通わせてもらっていたので、その時点でもう「負けた」と思いました。それまで会社に不満を抱えていたり、転職を考えたりもしていたけど、自分は思いっきり会社に甘えていたことを痛感させられたんですよね。まだ会社に対して何も貢献できてないのに、何を偉そうなことを考えていたんだろうと反省した瞬間でもあります。
そのときに改めて思ったんですよ。ビールのことも経営のことも勉強して、どこでも通用する人にならないと、会社の、そして社会の役には立てないなって。
そこから、技術員をやりながら、経営の勉強を続けました。そうしていたら声がかかって、経営企画部に異動することになったんです。今までやってきたビール造りとはまったく違う畑でしたけど、経営の中枢で仕事をすることはすごくやりがいがあると思ったので、片道切符のつもりで行きました。
経営企画部では、長期経営構想を作る仕事をしていました。そのときに立てた成長戦略のひとつが、健康領域の事業。今キリンが力を入れているヘルスサイエンスの事業です。
その方針をまとめたあとは、実際に健康領域の事業に取り組むために、健康食品の会社に出向しました。しかし、その事業は上手くいかず、3年で撤退という結果に。事業清算に近い形で、従業員の多くにも辞めていただくことになり、自分の人生はこれで終わりだと思うくらい大きな挫折でした。その頃のことはずっと忘れられずにいますね。
04
ビールで世の中は変えられないけど、楽しい時間は生み出せる
今の僕の仕事は、これからのキリンを担う人たちに経験の場を作ることです。モノづくりの会社にとって、経験のデザインって本当に大切。昔に比べてビールは新商品を出しにくい時代になっていますが、酒税が変わって、もう一度ビールへの関心が戻ってきているように感じます。だから、造り手の人たちには思い切り自由にやってほしいですね。過去の引き出しにあるものを組み合わせても、それだけではなく必ずひとつは新しいチャレンジをしようと伝えています。ありきたりなものを造っても意味がないから。
ビールは生き物の営みの産物なので、ビール造りは原理原則が大事ではあるけど、終着点はないものなんです。何か1つわかると、わからないことがさらに増える。そういう世界なんです。だから、決してコントロールしようなんて、おこがましいことは思わずに、謙虚に生き物に接してそのポテンシャルを引き出す。我々はそれを「生への畏敬」という言葉で表現し、醸造フィロソフィーとして掲げています。
先輩方から教えていただいたそういったフィロソフィーを次の世代に伝えることは、今の自分のミッションだと思っています。かといって、僕は自分のコピーを作りたいとはまったく思っていません。今の造り手には、僕たちができなかったようなことをやってほしいし、新しい歴史を作ってもらいたいですね。
ビール造りを続けてみて改めて感じるのは、いろんな経験をしてみて、ビールは人生に寄り添うものなんだと実感しています。
イギリスのパブなんて、いい例じゃないですか。職場と家庭を直に行き来するのではなくて、仕事のオン・オフを切り替える場所としてパブがある。そこにパイントグラスがあって、職場でも家庭でもない第3のコミュニティがあって、いつも会う仲間と1時間ほど話して家に帰る。そういうサードプレイスがある生活って素敵ですよね。日本でももっとこういう豊かな時間の過ごし方が増えたら良いなと思うんです。
僕はビールにそういう力があることを知っているし、信じてもいます。ビールで世の中は変えられないけど、楽しい時間や新しいコミュニティを作ることはできる。それを実現するための障害なら、いくらでも立ち向かおうと思っています。
この記事をシェアする
お酒に関する情報の20歳未満の方への
転送および共有はご遠慮ください。